2007年12月10日

第618話「 ガンジー 」

ずいぶん間があいてしまったが、前回の日記にに引き続きというか、ここのところ気になっていたアタシの考え方を検証し直している。
元々青臭いオタンコナスなのでそれほど複雑な考えなど持ち合わせていないけど、正論として受け入れられるような判断をしようとするたびにおかしくなってゆく。

ようするに、それは確固たる信念に裏付けられた自論がないということに気付いたというわけだ。

確固たる信念なんて書いてしまうと、恐れ多いんですけど感情的な判断とは別に、情報を客観視して整理するための方程式のようなものが必要だと考えたわけです‥‥‥。

なにはともあれ、どこから取り組んでよいものか、さぱーりわからないので、参考になりそうなものをガサゴソと探してみた。
で、NHKの番組で「その時、歴史が動いた」で取り上げられたガンジーが、よさげなのでとりあえずテキストにした。
何日か残ってたので、すぐにリンク切れになることはないと思うのだが?‥‥‥

だが、そのまえに著作権に関して一言考えを述べておく、私の考えが当ってようと違ってようと現時点では、NHKが製作したものの著作権がNHKにあるかのように、たくさんの方が考えておいでのようだが、NHKは製作と放送を委託された団体であり、著作権を主張できるのは、受信料を払っている視聴者であると、私は考えています。
したがってDVDにして再販したりテキスト教材等で得たものは、受信料軽減のために充当するか著作権フリー(パブリックドメイン)として公開すべきです。

なんちゃって ┐(´-`)┌  アハ

ていうか番組1本テキストにしちゃったので、横道にそれてる場合ではないのだ!
щ(゚ロ゚щ) ガッテム!!


この番組は、ガンジーによる「非暴力・不服従運動」を検証しているので、平和を望む人たちが口々に叫ぶ「暴力に暴力で対抗するのは愚かである」という、教訓を解明するのに打って付けだと思う。
そして、「何が暴力で、何が暴力でないのか」について頭を抱えてしまっている私にも、おそらく、きっと、たぶん‥‥‥役立つはずだ。

もし、テキストと動画を同時に見たいなどという変わった人は、以下に掲載する本文をメモ帳などにコピペして、動画に合わせて本文をスクロールしてください。

「ガンジー 暴力の連鎖を断ち切れ!」〜自由への行進400キロ〜

********* ここから *************

21世紀、世界は今も戦争とテロの脅威に脅かされています。
憎しみは更なる憎しみを生み、暴力の連鎖は留まるところを知りません。

今から70年あまり前、この暴力の連鎖に敢然と立ち向かった男がいました。
インド独立の父マハトマ・ガンジーです。
150年に渡りインドを植民地として支配した大英帝国
インドの人々はあからさまな差別と弾圧の元、貧しい暮らしを強いられていました。
永遠に続くかと思われた植民地支配、この時ガンジーは驚くべき方法で立ち上がります。

「非暴力・不服従運動」です。

しかし運動の中で人々は無抵抗のまま暴力に晒され傷ついていきました。

ガンジーの非暴力運動は、本当にインドを救えるのか?

誰もがガンジーの非暴力運動に疑問を持ったその時、ガンジーは僅か数十人の仲間たちと、海への400キロメートルにも及ぶ行進を始めます。

「塩の行進」です。

禁止されていた塩の製造に抗議する行動でした。やがて数千人に膨れ上がった「塩の行進」
この非暴力の民衆運動は立ちはだかる暴力にどう立ち向かうのか

「その時、歴史が動いた」
今日は、20世紀の奇跡と呼ばれたガンジーの非暴力運動、その勝利の瞬間を描きます。


(松平)
こんばんは、皆さん松平です。「その時・歴史が動いた」今日の主人公は、このマハトマ・ガンジーです。えー、ガンジーは身長は165センチ位なんですが体重が何と45キロという小柄な人でありました、しかし極めて偉大な人物でございました。
このマハトマ・ガンジーのマハトマというのはヒンズー語で「偉大なる魂」という意味だそうでございます。
さて、今日21世紀まだ戦火は絶える事はありませんけれども、えー前の世紀20世紀は「戦争の世紀」と言われました。
その20世紀の人々に大きなインパクトを与えた運動、これが彼が提唱した「非暴力運動」でございました。
今日は、その「非暴力」をテーマにいたします。
そして、今日の「その時」はですね、このマハトマ・ガンジーが非暴力主義でですね当事インドを植民地支配していた大英帝国、その総督府と初めて協定を結んで、そしてインドの人々の権利を勝ち取ったその日、つまり1931年の3月5日といたしました。
この日はインドの独立の本当の始めの一歩となったわけでありまして、それだけではなくて後の植民地解放運動に対しての非常に大きな影響を与えた1日でございました。

さて、ここでご覧いただくのは第1次世界大戦当事の世界地図でございますが、色で塗られているのがイギリス大英帝国の植民地です。えー、アフリカ・オーストラリア・アジアと色がついてますけど、なかでもこのインドはですね、その面積の広さ等もありまして、えーイギリスにとりましては、大英帝国にとりましては、極めて重要な植民地の一つでございました。ま、それがゆえにガンジー率いる独立運動に対してですね、えー、イギリス軍は苛烈な暴力による弾圧を繰り返すわけでございます。まぁそういう絶望的な環境の中でですねガンジーは、「非暴力・不服従」という手段をもって、インドの人々と共に立ち上がるんですね。

さー、今日はこのガンジーが、非暴力を、に目覚める、その経緯から番組を始めることにいたします。

大英帝国の植民地・インド
3億5千万のインドの民衆は、イギリスの総督府の支配のもと、圧政と重税と貧困に苦しんでいました。
そして、あからさまな人種差別、公開のムチ打ちや無差別逮捕などを許す、非人道的な悪法もまかり通っていました。

そんな中、裕福な階級に生まれたガンジーは、差別とは無縁のエリートとして育ち19歳でイギリスに渡ります。ガンジーはロンドンで法律学校に学び弁護士となります、そして24歳のとき仕事のためインドと同じイギリスの植民地だった南アフリカへ渡りました。

ここで、ガンジーは人生を一変させる事件に遭遇します。

列車で依頼主の元に向かう途中、一等席に座るガンジーを見かけた車掌は、こう迫ります

(車掌)
「インド人のお前は貨物車に移れ」

(ガンジー)
「私は一等席の乗車券を持っています」

(車掌)
「有色人種は出てゆけ」

この時ガンジーは激しい差別の現実を思い知らされます。そして、一つの決意を固めます。

この理不尽な差別に屈してインドに戻るなら私は臆病者だ。
この不正を正すために私は戦う。

自らの生き方を決めたこの夜を、ガンジーは後に人生で最も大切な時間だったと振り返ることになります。

当事、南アフリカには労働者として多くのインド人が送り込まれていました。人種差別の中重労働を強いられたインド人は歩道を歩く自由さえ奪われるなど様々な弾圧を受けていました。外国人登録証の携帯義務もその一つでした。これは彼らの自由な行動を束縛するものでした。ガンジーは抗議行動に出ます。

ガンジーは警官の目の前で公然と登録証を火にくべたのです。

いかなる暴力も、不正に抗議する意思を消すことはできない。

その思いだけがガンジーを支えていました。

一切、暴力を用いず不服従を貫くガンジーの姿は、アフリカのインド人を目覚めさせます。
やがて数千人が外国人登録賞を焼き捨てるまでに高まった運動は、ついにイギリス政府にその廃止を約束させるに至りました。
この体験からガンジーは、「非暴力・不服従」を貫く運動が民衆に広がれば不正な権力に打ち勝つことができると確信します。

1915年
ガンジーは22年ぶりに祖国インドに帰ります、当時独立運動を担っていたのは国民会議派でした。しかし彼らの政治運動は都会の富裕層の支持を集めるに留まっていました。
ガンジーは会議派の運動とは一線を隔し農村を中心に民主運動を展開します。

南アフリカでの経験から人口の大半を占める農村の人々が立ち上がらなければ独立は不可能だと考えたのです。
各地でガンジーはこう呼びかけます。

インドは少数のイギリス人の物ではありません、インドの主人公は私たちインド人なのです。

この時ガンジーが独立運動のシンボルとしたのが「糸車=チャルカ」でした。
インド綿を紡ぐ伝統的な道具を復活させたのです、イギリス製の服を買うのではなく自分たちで作ろう、長い植民地支配の中で知らぬまにイギリスに依存している暮らしを変えようと訴えたのです。
ガンジーはまた、イギリス製の服を焼き払う運動を呼びかけます、この運動は瞬く間に民衆の支持を集め、その力はいつしかイギリスの総督府を脅かすまでになっていきました。

1919年
警戒を強めた総督府は、集会禁止令を発布
そして、インド北部の町アムリトサルで事件が起こります。
2万人のインド人が抗議集会を行っていた公園に突如軍隊が集結
集会禁止令に違反したという理由でした

死者400人を出した大惨事の現場は、今は独立運動の記念の地となっています。
壁に穿たれた無数の弾痕
事件の後調査に出向いたガンジーは怒り狂う民衆の姿を眼にしました
このままでは非暴力運動は崩壊し、更なる暴力を生む、危機を感じたガンジーは呼びかけます。

「皆さんは彼らを八つ裂きにしたいでしょう、その気持ちは私にも良く分かります。しかし、敵を許すことは敵を罰するより気高いことだということをどうか忘れないでほしいのです。」

しかし同胞を殺された人々にとって、ガンジーの言葉はきれい事にすぎませんでした。
やがて人々の怒りが爆発します。
抗議運動の取り締まりに怒った民衆が警察署に火を放ち22人の警官を殺害したのです。
このことに衝撃を受けたガンジーはついに独立運動の中止を宣言します。

犠牲者の死を無駄にするのか!
ガンジーを裏切り者と非難する声に、ガンジーはこう答えました。
「このまま暴力を放置すれば、更なる暴力の泥沼にすべての人々が足を踏み入れてしまうでしょう。今こそ立ち止まって考え直さなければならないのです。」

総督府は追い討ちをかけるように、民衆を扇動した罪でガンジーを逮捕
町には戒厳令が敷かれ、軍部の武力による独立運動の弾圧が激化します。

非暴力運動は不可能なのか、獄中でただ一人ガンジーは悩みます。
インドの民衆が非暴力運動で初めて勝利を掴み取るその時まで、あと9年。


(松平)
ゲストのご紹介です、写真家の大石芳野さんでいらっしゃいます、どうぞよろしくお願いします。

(大石)
よろしくお願いします。

(松平)
大石さんは写真家としてベトナム、それからカンボジア、コソボ、アフガニスタン、そういったさまざまな世界中の戦地、あの紛争地に出かけていらっしゃいまして、まさに惨たらしい暴力の現場、そのものを見てらしたわけですけども、まず伺いたいのはガンジーが非暴力を貫くためにですね、あの独立運動を中止する決断をしますね、あの重い決断をしたガンジーの心のうちというのを分析していただきたいのですが、

(大石)
いや、ホントにあのー暴力をね断ち切るということは、いかに難しいかってことを、これで感じますよね。あのアフガニスタンに行ったときですね、その百年、あの復讐は百年後でも仕返しができると、遅くはないんだと、いうことを聞いているんですけど、要するに、いくら私たちが、あのー戦争はいけない、暴力はいけないと言っても、どうしても仕返ししたくなってしまうという、この現実ですよね。
であのー、ガンジーは民衆の中に潜む「悪」この「悪」の力っていうものがどんなものかっていうことに、彼は気づいて、そしてそのーまぁ独立運動をここで中止したほうが良いという、まぁこれは凄い決断だったということですね。普通はなかなか出来ない。でもこれをまぁ、ガンジーが出来たって言うことは、そのー暴力はいけないんだ、非暴力こそっていう、大きな理想があって、それに向かっていこうという信念、それがあったからですね。でもー孤独ですね、やっぱり先頭に立つ人ってねー。

(松平)
ガンジーの非暴力運動は大きな挫折に直面するわけですけど、しかしその8年後にですねガンジーは、再び民衆の先頭に立つ機会を得るわけですね。さぁ、今度はガンジーの非暴力運動ってのは民衆の心を掴むことができるのでしょうか。
大英帝国のですね、暴力による、武力による弾圧に立ち向かうことができるのでありましょうか。

1929年
インドの民衆運動に再び火がつきます、憲法改正などを決める委員会にインド人が参加していないことを怒った民衆が各地で激しい抗議運動を繰り広げたのです。

このままでは、武力衝突となる。
危機を感じたガンジーは再び運動の先頭に立ちます。非暴力を貫く堅い決意を込めたガンジーの新たな運動は誰もが思いもかけないものでした。

1930年3月12日
彼は海に向かって歩き始めたのです。ガンジー61歳。
歩くメンバーは78人、ガンジーが絶対に非暴力を貫けると信頼する同志たちでした。

目的地の海岸まではおよそ400キロメートル、海水から自分たちの手で塩を作ることを目的にした「塩の行進」です。

当時インドでは法律によって、インド人の塩の製造は禁止されていました。
さらに塩には法外な税がかけられていたんです、「塩の行進」は植民地支配の不当性を、暮らしに欠かせない「塩」によって訴えようとするものでした。

ガンジーが「塩の行進」を提案したとき、運動の仲間たちはこぞって反対します、暴力に訴えてでも独立を勝ち取ろうとするチャンドラ・ボースは、こう非難します、「ガンジーのやり方は生温い」

後に初代首相となるネルーも、納得しませんでした。
ガンジーは、なぜ塩などという小さな問題にこだわるのか。

インドの統治を任されていたアーウィン総督はイギリス国王ジョージ5世に、こう報告しています。

「ガンジーの行進は、物笑いの種です。放っておいてかまわないでしょう。」

なぜ、塩などにこだわるのか、疑問の声を背にしながらガンジーは歩きつづけます。

行進の途中ガンジーは貧しい農村に立ち寄りこう語りかけました。

空気や水のように塩がなければ人は生きてゆけません。
塩は牛もなめます、しかしその塩に私たちは法外な税金を払わされているのです。
その税金で総督は、あなたたちの5000倍もの給料をもらっています。
ともに抗議のために歩きましょう、そして海岸で塩を作るのです。

そのころ農村の貧困はかつてないほど悪化していました、世界大恐慌の余波で綿花や小麦などがまったく売れなくなったのです。

ガンジーの言葉は、つらい日々を送る農民たちの心を強く揺さぶります。
やがて多くの農民たちがガンジーの行進に加わります。
一方ガンジーは役人や学生の多い都市では、こう呼びかけました、役人は自分がイギリス支配の片棒をかついでいることを自覚すべきです、インド人でありながら同じインド人を支配する仕事は、勇気をもってやめてください。
そして行進に、誇りをもって参加してください。

ガンジーのこの呼びかけに、村長そして警察の所長までもが職を辞め、行進に加わります。

西インドの町アーメダバードに住むチュニバイ・ヴァイダさん、12歳のときに「塩の行進」を見て大きな影響を受け、その後社会活動の道に入りました。

インドのために戦い、歩くガンジーの姿を見て、私の心は一杯になりました。
インド全体がガンジーの影響で大きく変わってゆくのを肌で感じました。
イギリス支配が破綻して金を稼いでいた役人や商人たちも、このままでは独立できないことをガンジーに気付かされ仕事を辞め歩き始めたのです。

日に日に膨れ上がる行進はやがて海外のメディアの注目を集め、記者が随行するようになります。
ガンジーはその質問に、一つ一つ丁寧に答え、イギリス支配の不正、そして非暴力の意味を訴えました。

アメリカの新聞は、「塩の行進」を、こう伝えています。

貧しい者も富める者も数千人の列となって共に歩いている、ガンジーによる歴史的な行進である。

行進が海に近づくにつれ、危機感をもった海辺の町の知事たちは、海岸に到着するまでに対処してほしいと総督府に訴えます。
しかし、アーウィン総督はこう答えます。

「早まって逮捕すれば、ガンジーを独立運動の殉教者に祭り上げてしまうだけである。」

「民衆の力」初めは楽観視していた総督府を追い詰め始めていました。

数千人に膨らんだ民衆は、3キロメートルもの人の波となって海岸へと行進します。

ガンジーの言葉です

「神々に見せたい光景だ、素晴らしい人々がここにいる。この一歩一歩が独立に向かう歩みなのです」

道のりが半ばを迎えたころ、初めは反対していたネルーも行進に加わります。

ガンジーの非暴力運動に懐疑的だったチャンドラ・ボースも、こう語りました。

「列車を使わずに歩くことで、ガンジーは通った町や村に興奮を巻き起こし、さらにそれがインド全体に伝わってゆく時間を与えた。民衆の心を動かすガンジーの手腕に私は脱帽する」

海岸への到着を間近にした「塩の行進」をイギリス・タイムズ誌は不安げに、こう記しました。
今後数日間インドで起こることは、イギリスにとって大きな脅威となるだろう。

出発して24日目の夕刻、およそ400キロメートルの道のりを歩ききったガンジーと民衆は、アラビア海の海岸に到着します。ここはかつてインド人が自らの手で塩を作っていた場所でした。

明くる朝、人々は一斉に海岸に降りてゆきます、ガンジーは砂浜に自然に結晶した小さな塩の塊を取り上げ、こう宣言します。
「この塩で、大英帝国を根底から揺さぶるのです。たとえ手首が切り落とされようとも、つかんだ塩を放してはなりません。インドの誇りはこの塩にあるのです」

人々は堰を切ったかのように海に入り、インド人に塩を作ることを禁じた不当な法律を、堂々と破ってゆきました。インドの民衆が非暴力運動で初めて勝利を掴み取るその時まで、あと11ヶ月。


(松平)
あのー、私の、今ここにありますのがインドで流通している紙幣ですねえ。そのほとんどがご覧のように、表がガンジーのデザインですね。私が今手にしている500ルピー紙幣です、高額紙幣です。1ルピー3円ぐらいですから、これ1500円紙幣ですがその表はもちろんガンジーで、その裏がですね「塩の行進」のデザインになっております。ガンジーがいかにインドの人達にに敬愛され、この「塩の行進」がインドの人たちの誇りになっているかということがわかりますが、ガンジーが400キロ歩いてようやく海に到達する。ガンジーが海に入ったと同時に堰を切ったように民衆も海に入る。

しかしその時からまたイギリスの、大英帝国の新しい弾圧が始まるわけです。
そして皆さん、いよいよ今日のその時がやってきます。

塩を作る運動は、またたくまにインド全土に飛び火し500万人が参加する大運動に発展しました。
ついにイギリス本国のマクドナルド首相は総督府に指示を出します、「帝国の威信にかけて、反政府運動を鎮圧せよ」

厳しい取締りが始まりました、警官は棍棒に鉄の板を巻き、海岸に向かう人を容赦なく殴り付けます。しかし、人々はガンジーの訴える「非暴力・不服従」を貫きました。殴られても殴られても立ち上がり海を目指す民衆の姿は大英帝国を震え上がらせました。

「塩の行進」が始まって1月半、アーウィン総督は声明を発表します。

「もはや深刻な国家事態である」

総督府は軍隊を派遣、令状なしの大量逮捕に踏み切ります。
逮捕者は10万人を超えました。
政府は臨時の収容所を次々と作らねばならない事態に追い込まれます。

運動がピークを迎えた5月4日、ガンジーはアーウィン総督に宛てて書簡を送ります。

「政府により、同士が各地で激しい暴行を受けています。彼らを過酷な目にあわせた張本人は私です。ですから私は、インドの民を暴力によって抑圧するイギリス支配の化けの皮を剥ぐ義務があるのです。塩をインド人の手に完全に取り戻すため、ここに製塩工場の所有権を要求するデモを予告します」

手紙を受け取った翌日、総督府はガンジーを逮捕。

逮捕の知らせを聞いたとき、ガンジーはニッコリ微笑んだといいます。

逮捕から2週間たった5月21日、ガンジーがデモを予告した製塩工場に、2500人のインド人が集まり工場の明渡しを求めました。
デモを指導した詩人のサロジニー・ナイドゥは、こう宣言します。
「ガンジーの肉体は刑務所につながれていますが、彼の魂は私達と共にあります。いかなることがあっても暴力に訴えてはなりません、抵抗せずただ打たれてください」

デモ隊の前にライフルや棍棒を手にした400人の警官が立ちはだかります。

傷つき倒れる人を乗り越え、非暴力を貫くデモは整然と列をなし、警官の暴力の前に歩みを進めます。

多くの死傷者を出したこのデモは、またたくまに世界に報じられました。アメリカの新聞はこのデモを1面トップで報じました。
「これほど悲惨な光景を見たことはない、その痛ましさに私達は顔を背けざるを得なかった。驚くべきはインド人の規律だった。彼らは残虐な暴力に対し、非暴力を完全に貫き通した。」

年が明けた1931年1月19日
国際世論の高まりにイギリスのマクドナルド首相は、ついに総督府に、こう通達します。
「今後ガンジーを大英帝国の交渉相手とせよ」

釈放されたガンジーは、イギリス支配の象徴、総督府に向かい3億5千万のインド国民を代表して交渉に臨みます。

その時1931年3月5日

ついに総督府は「塩の製造」と10万人に上る「政治犯の全員釈放」を認めたのです。


150年に渡る大英帝国の植民地支配が、インド民衆に初めて膝を屈した瞬間でした。

ガンジーとともに、「非暴力・不服従」を貫いたインドの人々は、この時悲願の独立への第一歩を記したのです。


(松平)
大石さん、そのー棍棒で殴られても殴られてもね前に進むもうとする、特に実写のフィルムはホントに胸に詰まりましたけど、彼らの勇気というのはどこから出ているんでしょうねー

(大石)
ねー、ホントに、やっぱりガンジーは人々に誇りっていうものを訴えたということになるんでしょうねぇ。
またあのー、私がナチスの強制収容所で生き延びた人たちにもお話を伺ったんですけど、そのときにあのー、自分達が捕らえられて一番辛かったのは、この尊厳、誇り、これを奪われたことだと、やっぱり家とか財産とかお金とか、そういうことを失ったことよりもよっぽど辛かったと話してましたねー。
それからこの誇りっていうことを、やっぱりインドの人たちに目覚めさせた、そういうことが非暴力運動を組織化してゆけるということにつながっていったんではないでしょうかねー。

(松平)
まぁ今あのー、まだ世界ではその戦火が消えていません、今日の「その時」をですねー、どういう風に捕らえますか

(大石)
いやーこれはあのー、今21世紀こそね平和になると私達みんな願ったわけですよね、でも、ニューヨークのテロ、アフガニスタン、そしてイラクという風に続いてるわけですけど、たとえばそのーガンジーが「敵を許すことは、敵を罰することより気高い」ことだと、気高いっていう言葉で彼は表現しているわけですけど、まぁそれはやっぱり私達今ねぇあの、知らないといけない。ようするにたとえばアフガニスタンやイラクで10歳の子供がですね、10年経ったら二十歳ですよね、で、報復は100年後でもそれを実現できるっていう言葉があるわけですから、やっぱり今こそですね、そういう風にならないように私達が考えたいと。

(松平)
そうですかー、どうもありがとうございました。


えーガンジーとインドの人々の悲願であった、そのインドの独立はですね、その「塩の行進」から17年後に実現するわけですけど、しかしそのことがまたガンジーを悲劇に見舞わせるわけですね、えー、今日はガンジーの非暴力運動のその後と、それから死の直前にガンジーが語った言葉と、これを噛み締めながら番組を終えたいと思います。

今夜もありがとうございました。


1947年8月15日
インドはついに悲願の独立を勝ち取ります。
しかしその独立はガンジーを悲しませるものとなりました。
ヒンドゥー教とイスラム教の対立によって分離独立に向けた争いが起きていたのです。2つの宗教の対立は各地で流血の惨事を引き起こし50間万人以上が死亡しました。
悲嘆にくれたガンジーは、争いが止むことを願い、死を覚悟した断食に入りました。
「宗教は人と神、また人と人とを結びつけるものです。どうして宗教の名において、殺し合う必要があるのか」

日に日に痩せ細ってゆくガンジーに、インドの民衆は心を痛めます。そして、断食6日目争いを続ける人たちはついに武器を捨てたのです。しかし断食を解き、祈りを捧げるために外に出たガンジーを、凶弾が襲います。ガンジーの宗教の融和策に反発するものの犯行でした。

享年78歳


ガンジーの死後、非暴力運動は世界各地に受け継がれていきました。

アメリカのキング牧師は黒人の人権を、ガンジーに学んだ「非暴力・不服従」運動によって、勝ち取ってゆきました。

「殴られても殺されても挫けてはならない」

その後もガンジーへの尊敬を公言する指導者達は後を絶ちません。

人間の尊厳と自由を訴えるガンジーの精神は、今も人々の胸に生き続けています。

ガンジーは死を前に、こんな言葉を残しています。

「誰かが私に銃を向けても、私が微笑みながら銃口に向かうことができたなら、そして、銃弾を受けても心に神の名を唱えることができたなら、その時こそ私は祝福に値するものとなるでしょう」

終り

今日はこのへんで‥‥‥。σ( ̄^ ̄)


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